「さいとう・たかを “画”を語る」〜その1〜

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さいとう・たかを〝画〟を語る

 

これまで劇画について、分業制作システムについて、デューク東郷というキャラクターについて、多くを語ってきたさいとう・たかを氏だが、「画」そのものを語ることはなかった。今日まで描き続けてきた膨大な画稿を前に、さいとう氏が語る『ゴルゴ13』、画の歴史──。]

 

──改めて、ご自身の画稿をご覧になっていかがですか。

 

感慨深いですね。お陰様で、画業60年を超えましたが、まさか自分の画集が出ようとは、思いもしませんでしたね。昔も今も、まったく自分の〝画〟に自信はありませんから。

 

子供の頃から、画工の成績だけは良かったんです。地元・大阪府の展覧会に作品を出すよう先生に言われて出すと、必ず金賞をいただいていました。ところが、中学3年だったか、応募したら銀賞だった。

 

同じ学校の同学年の生徒が金賞を取ったと聞いて、どんな画なのかと思って、そっと会場に見に行ったんですよ。普通の画用紙の倍はあったかな。その画面いっぱいに、お寺の屋根瓦がびっしり描かれていました。脇から生えているぺんぺん草まで描いてあって、凄い迫力でした。私には、こういう構図は出てこないと思いましたね。私は、どうしても画用紙の大きさに収まるような構図を考えてしまうんです。

 

 

「君は、画で飯を食うことを考えるな」

 

 

学校で、ただ一人尊敬できた方で、東郷先生という方がいらっしゃったんですが、その東郷先生に、「見てきたか。どう思った」と聞かれて、「素晴らしかったです。さすが金賞ですね。自信失いました」って答えたんです。そうしたら先生が、「君は、画で飯を食うことを考えたら、絶対いかんな。君には画を描く才能がない」って、ズバッと言われたんです。完全に打ちのめされました。それが今でもトラウマになっているんじゃないかと(笑)。

 

そう、ゴルゴの〝デューク東郷〟の名は、その先生の名前が由来です。

 

画は、学校の授業以外で、正式に習ったことはないですね。見様見真似の自己流で。小説の挿し絵が好きで、画家の御正伸先生とか小田富彌先生とか、よく真似て描いていました。

 

──まったくの我流だと。

 

ただね、あれは習ったことになるのかな……。当時住んでいた堺市の家の近くに、私たちが遊び場にしていた大きな池があったんです。その池の向こう岸に、小屋というか、小さな古家が建っていて、「なんや、あれ」って、興味を惹かれて。夏休みだったんですね、みんなで池をバシャバシャ泳いで行ってみたんです。そうしたら、老人が筆で画を描いていて、見たらうまいんですよ。近寄ってじっと眺めていたら、「画が好きなのか」つて聞くから、「好きだ」って言ったら、「じゃあ、教えてやるから、おいで」って言われて、それから通うようになった。

 

でも全然、画なんか描かせてくれないんですよ。薪割りと飯炊きばかりやらされて。不満が顔に出ていたんでしょうね。ある時、やることやって、縁側でぼやっとしいていたら、目の前に一枚、和紙を置かれて、「これに、線を引いてみろ」と。墨付けて、「きれいな線、引いてやろう」と思って、紙の半分くらい引いたかな。

 

そうしたら、「この線は、なんのつもりで引いた」って聞いてくるんですよ。「いや、線引けっていうから引いたんです」って答えたら、「一本の線、引くんでも、それが何なのか考えて引け。それが鉄の表面を表わしている線か、人間の肌を表わしている線か、木の枝を表わしている線か、一本一本考えて引け」と。「そんなもんかなあ」と思って、それから、線ばかり引かされていましたね。この体験は、今の仕事に、とても役に立っています。

 

教わったのはそんなに長い期間じゃないです。大阪市内にすぐに引っ越されましたから。後で知ったんですが、尾形梅花という古文化の研究家として高名な方で、画の方でもまあまあ知られた方だったんですよ。

 

 

「持ち込むなら手塚調でなければダメ」

 

 

中学卒業して、母親から無理やりやらされた理髪業になじめずに、漫画家になることを夢見たんですが、漫画の世界のことは何も知らない。その時、あれこれ教えてくれたのが、同級生だった山本一夫くんです。彼も、後にペンネームでデビューするんですが、その彼が、「今、出版社に持ち込むんだったら、手塚治虫調の画でなければ絶対受け付けてくれない」言うんです。私はリアルなドラマを描きたかったんで、「あのディズニー調の画ではなあ」と思ったんですが、山本くんが、どうしても手塚調でなければダメだと。それで、一所懸命真似て、それでも「まだ、ダメ」とか言われて(笑)。

 

幸いに、日の丸文庫に持ち込んだその作品が採用されて、おまけに好評で、理髪業から足は洗えたんですが、画についての悩みは、それからずっと続きましたね。

 

いろんなタッチを試してみて、少女漫画まで描いたんですが、仲間は、私が自分の画に悩んでいるとは気づかないで、「さいとうは、器用なやっちゃな」とか言っていましたね(笑)。

 

──劇画の画が確立したのは?

 

東京に出てきて、大阪でサラリーマンしていた兄貴を呼び寄せて、さいとう・プロを立ち上げる頃まで悩んでいました。でも、兄貴に仕事辞めさせた以上、そんなこと言っていられない状態になって、もうやけくそになって、一日何十枚も、Gペンでがりがりやりだしたら、読者にものすごく受けて、似顔絵カットの投書も驚くほど来るようになって、「ああ、この画でいいんだ」と。

 

『台風五郎』とかね。今思うと、意図せずに挿し絵のタッチが入ってきたんです。なにも遠回りすることなかったんですよ。初めから、好きな挿し絵のタッチを生かして描けば良かったんです。自分の画がまあまあできあがったかなと思えたのは、今はないボーイズライフ誌(小学館刊)で『007』を描いていた頃ですね。

 

『ゴルゴ13』は、ビッグコミック誌で『台風五郎』を、よりリアルな世界に置きなおして描いた『捜し屋はげ鷹登場!!』の後を受けての作品で、もっと刺激的なものをという編集部の要望に応えて考えたものです。私も、もっとインパクトのあるものをやらなきゃダメだと思っていましたからね。すべて計算づくで、自分で描きたいと思ってやったところは一つもありません。

 

『ゴルゴ13』の連載が始まる前年あたりかな。仕事が増えたので、スタッフ募集して、さいとう・プロの制作陣も充実しました。彼らは優秀でした。あの時採用したスタッフ、その後、ほとんどがプロになりましたからね。こうやって原稿、久しぶりに見ていると『ゴルゴ13』はスタート時点から、スタッフに支えられていたことがよくわかりますね。

 

 

 

〜その2〜 に続く...

 

 

 

※当インタビュー記事は「さいとう・たかを[ゴルゴ13]イラスト画集」に収録されたものを抜粋して掲載しております。

 

 

TAKAO SAITO WORKS

"Duke-Togo"GOLGO13 HISTORY!!

さいとう・たかを[ゴルゴ13]イラスト画集

著者 さいとう・たかを

発行者 大村信

発行所 小学館